アステカの祭壇とは?
■アステカについて
アステカとは、1325年から1521年までにメキシコで栄えたメソアメリカ文明の王国です。
建国当初はアスカポツァルコ王国に朝貢し庇護を受けていましたが、第4代国王であるイツコアトルの時代から徐々に主従関係が逆転していき、テスココやトラコパンといった強力な国と同盟を結び、やがて次々と周辺国家を従えていきました。
最盛期のアステカの領土はメキシコ湾から太平洋沿岸にまで及び、およそ500万人以上の人々を支配したと言われています。
首都はテスココ湖の島上にあるテノチティトラン。ここでの人口は数十万人に達し、神殿や宮殿が立ち並んで大いに繁栄しました。
■人身御供
さて、アステカの社会を語る上で最も特筆すべきこと。それが人身御供です。
アステカは軍国主義が支配する階級社会でした。中世の他文明の階級社会と同じく、貴族、農民等の他に奴隷が存在していました。奴隷は多くが戦争捕虜で、それらは主人の所有物とされ相続の対象にもなっていました。モノとして扱われていたというわけです。
当時のメソアメリカでは「人間の新鮮な心臓を神に捧げなければ太陽が消滅する」という終末信仰が広く信じられており、アステカの神殿においても日常的に生贄が捧げられていました。そしてその生贄の対象となったのが、奴隷でした。アステカはこの奴隷確保に非常に力を入れていたようで、時には生贄を得るために戦争を行うこともあったようです。
■生贄
生贄になった奴隷は、神殿にある祭壇の前に置かれた石のテーブルの上に生きたまま仰向けにされました。そして神官達に四肢を抑えられ、黒曜石のナイフで胸を切り裂き心臓を摘出されたといいます。
この行為は神事として扱われていました。奴隷にとっても生贄になることは名誉なことであったようです。奴隷に選ばれた者は非常に丁寧に取り扱われたと伝えられています。
■アステカの祭壇
処刑台である石のテーブルの前に置かれた祭壇。奴隷の生き血を入れた壷。それが現在水面下でジワジワと広まっている「アステカの祭壇」なのです。
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