三毛別羆事件(1/2)
※Wikipediaより転載

三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん、六線沢熊害事件、苫前羆事件とも)とは、1915年12月9日〜12月14日にかけて、北海道留萌苫前村(現:苫前町古丹別)三毛別(現:三渓)六線沢で発生した日本史上最大最悪の熊害(ゆうがい)事件。冬眠に失敗した空腹のヒグマが数度にわたり民家を襲い、当時の開拓民7名が死亡、3名の重傷者を出すという被害があった。

事件の経緯
1915年(大正4年)11月初旬のある夜明け前、日本海から内陸へ30kmほど入った北海道三毛別六線沢にある開拓村の池田家に巨大なヒグマが姿を現した。飼い馬が驚いて暴れたため、その時の被害はわずかなトウモロコシに止まった。アイヌ語で「川下へ流しだす川」を意味する「サンケ・ペツ」を地名語源とする三毛別は開拓の端緒にかかったばかりの土地でもあり、このような野生動物の襲来は珍しいものではなかったが、主人・富蔵はぬかるみに残った足跡の大きさに懸念を持った。
そして11月20日、ふたたびヒグマが現れた。馬への被害を避けようと、富蔵は在所と隣村から2人のマタギを呼び、3人で待ち伏せることにした。そして30日、三度現れたヒグマに撃ちかけたが、仕留めるには至らなかった。翌朝、次男・亀次郎を加えた4人で鬼鹿山方向へ続く足跡を追い血痕こそを確認したものの、地吹雪が酷くなりそれ以上の追撃を断念した。

■12月9日
<太田家の惨劇>
秋から冬にかけ、開拓村では収穫した農作物を出荷する様々な作業に追われていた。三毛別のような僻地ではそれらは人力に頼らざるを得ず、男たちは出払い気味になっていた。そんな12月9日の朝、三毛別川上流に居を構える太田家でも、同家に寄宿していた伐採を生業とする長松要吉(通称・オド)(59)が一足早く仕事に向かい、当主の三郎(42)も氷橋用の桁材を切り出すため出掛け、三郎の内縁の妻・阿部マユ(34)と太田家に預けられていた小児・蓮見幹雄(6)の二人が留守に残った。
昼、オドがいつものように飯を食べに戻ると、土間の囲炉裏端に幹雄がぽつんと座っていた。ふざけて狸寝入りしているのだろうとオドはわざと大声で話しかけながら近づき、幹雄の肩に手を掛けて覗き込んだ。その時、オドは幹雄の顔下に付着した血の塊と、何かで抉られた喉元の傷を見つけた。側頭部には親指大の穴が穿たれ、幹雄は事切れていた。オドは恐怖に震えながらマユを呼んだが何の応答も無く、ただ薄暗い奥の居間から異様な臭気が漂うのみ。只ならぬ事態に家を飛び出したオドは下流の架橋現場に走った。
駆けつけた村の男たちは、踏み入った太田家の様子に衝撃を受けつつも、これがヒグマの仕業だと知るところとなった。入口の反対側にあるトウモロコシを干してあった窓は破られ、そこから土間の囲炉裏まで一直線に続くヒグマの足跡が見つかった。おそらく、トウモロコシを食べようと窓に近づいたヒグマの姿にマユと幹雄が驚いて声を上げ、これがヒグマを刺激したものと思われた。足跡が続く居間を調べると、燻ぶる薪がいくつか転がり、柄が折れた血染めの鉞があった。ぐるりと廻るようなヒグマの足跡は部屋の隅に続き、そこは鮮血に濡れていた。それは、鉞や燃える薪を振りかざして抵抗しつつ逃げるマユがついに捕まり、攻撃を受けて重傷を負ったことを示していた。そこからヒグマはマユを引き摺りながら、土間を通って窓から屋外に出たらしく、窓枠にはマユとおぼしき頭髪が絡みついていた。
オドが幹雄の死に気づいたとき、土間には馬鈴薯が転がり、まだ暖かかったという。そこから、事件が起こってから左程時間は経っていないと思われた。実は事件直後、村人の一人が太田家の窓側を通る農道を馬に乗って通り過ぎていた。彼は家から森に続く何かを引き摺った痕跡と血の線に気づいたが、マタギが獲物を山から下ろし、太田家で休んでいるものと思い、その時は特に騒ぎ立てなかった。これらから、事件は午前10時半頃に起こったと推測された。
事件の報に村は大騒動となった。しかし12月の北海道は陽が傾くのも早く、幹雄の遺体を居間に安置した頃には午後3時を過ぎ、この日に打てる手は少なかった。太田家から500m程下流の明景(みよけ)安太郎(40)家に男たちは集まり善後策を話し合った。ヒグマ討伐やマユの遺体奪回は翌日にせざるを得ないが、とり急ぎ役場と警察、そして幹雄の実家である蓮見家への連絡を取らなければならない。しかし通信手段は誰かが直に出向くより他に無い。一度はある男が使者役に選ばれたが、本人は嫌がり、頼まれて斉藤石五郎(42)が引き受ける事になった。太田家よりもさらに上流に家を構える石五郎は、所用にて当主・安太郎が外出しなければならない明景家に家族を避難させ、オドも男手として同泊する手はずが取られた。

■12月10日
<捜索>
早朝、斉藤石五郎は村を後にした。残る男たちは討伐およびマユの亡骸を収容すべく約30人の捜索隊を結成した。昨日の足跡を追って森に入った彼らは、150m程進んだあたりでヒグマと遭遇した。馬を軽々と越える大きさ、全身黒褐色一色ながら胸のあたりに「袈裟懸け」と呼ばれる白斑を持つヒグマは捜索隊に襲い掛かった。鉄砲を持った5人が何とか銃口を向けたが、手入れが行き届かず銃撃できたのはたった1丁だけだった。怒り狂うヒグマに捜索隊は散り散りとなったが、あっけなくヒグマが逃走に転じたため、彼らに被害は無かった。改めて周囲を捜索した彼らは、トドマツの根元に小枝が重ねられている血に染まった雪の一画と、その下から黒い足袋を履き葡萄色の脚絆が絡まる膝下の脚と、頭蓋の一部しか残されていないマユの遺体を発見した。
このヒグマは人間の肉の味を覚えた。マユの亡骸を雪に隠そうとしたのは保存食にするための行動だった。奪われたものを取り返しに来る習性を熟知した村のある男は「ヒグマはまた来る」と言い放った。

<太田家への再襲>
夜になり、太田家では通夜が行われたが、多くは恐怖にかられ参列したのはたったの9人だけ。その中のひとり幹雄の実母・蓮見チセ(33)が酒の酌に廻っていた午後8時半頃、大きな音とともに居間の壁が突如崩れ、ヒグマが室内に乱入して来た。棺桶が打ち返されて遺体が散らばり、恐怖に駆られた会葬者達は梁に上り、野菜置き場や便所に逃れるなどして身を隠そうとする。この騒ぎの中、ある男があろうことか自身の妻を押し倒し、踏み台にして自分だけで梁の上に逃れた。以来、夫婦の間では喧嘩が絶えず、夫は妻に一生頭が上がらなかったという。
この騒ぎの中でも、気力を絞って石油缶を打ち鳴らしてヒグマを脅す者に勇気づけられ、銃を持ち込んでいた男が撃ちかけた。さらに300m程離れた隣家で食事をしていた50人程の男たちが物音や叫び声を聞き駆けつけた。しかしその頃にはヒグマは既に姿を消していた。犠牲者が出なかったことに安堵した一同は、いったん明景家に退避しようと下流へ向かった。  

<明景家の惨劇>
太田家の騒動は明景家にも伝わり、避難した女や子供らは火を焚きつつ怯えながら過ごしていた。護衛は近隣に食事に出かけ、さらに太田家へのヒグマ出没の報を受けて出動していた。太田家から逃れたヒグマは、まさにこの守りのいない状態の明景家に向かっていた。
太田家からヒグマが消えてから20分と経たない8時50分頃、背中に四男・梅吉(1)を背負いながら討伐隊の夜食を準備していた明景安太郎の妻・ヤヨ(34)は、地響きとともに窓を破って侵入して来た黒い塊に声をあげた。それは、見たことも無い巨大なヒグマだった。囲炉裏の大鍋がひっくり返されて炎は消え、混乱の中ランプなどの灯かりも落ち、家の中は暗闇となった。ヤヨは屋外へ逃げようとしたが恐怖のためにすがりついてきた次男・勇次郎(8)に足元を取られ、よろけたところにヒグマが襲い掛かり、背負っていた梅吉に噛み付いた。そのまま三人はヒグマの手元に引きずり込まれ、ヤヨは頭部を齧られた。その時、男番として唯一家にいたオドが逃げようと戸口に走った姿に気を取られたヒグマは母子を離し、この隙に乗じヤヨは子供たちを連れて脱出した。追われたオドは物陰に隠れようとしたが叶わず、ヒグマの牙を腰のあたりに受けた。オドの悲鳴にヒグマは再度攻撃目標を変え、屋内に眼を向けた。そこには未だ7人が取り残されていた。ヒグマは明景家の三男・金蔵(3)と斉藤家の四男・春義(3)を一撃で撲殺し、さらに斉藤家三男・巌(6)に噛み付いた。この様子に、野菜置き場に隠れていた石五郎の妻・斉藤タケ(34)が筵から顔を出してしまい、彼女もまたヒグマの標的となった。ヒグマの爪にかかり居間に引きずり出された身重のタケは「腹をやぶらないで」と子供の命乞いをするも叶わず、上半身から食われ始めた。
川下に向かっていた一行は、激しい物音と絶叫を耳にして急いだ。そこへ重傷のヤヨがたどり着き、皆は明景家で何が起こっているかを知った。途中オドを保護し、男たちは明景家を取り囲んだ。しかし、暗闇となった屋内にはうかつに踏み込めない。中からは、タケと思われる女の呻き声、そして肉を咀嚼し骨を噛み砕く音が響く。一か八か家に火をかける案や闇雲に一斉射撃しようという意見も出たが、子供らの生存に望みをかけるヤヨが必死に反対した。一同は二手に分かれ、一方は入り口近くに銃を構えた10名あまりを中心に配置し、残りは家の裏手に廻った。そして裏手の者が空砲を二発撃つと、ヒグマは入口を破って表で待つ男たちの前に現れた。先頭の男が撃とうとしたが、またも不発。他の者も撃ちかねている隙に、ヒグマはまたも姿を消した。
ガンピの皮を松明に明景家に入った者の眼に飛び込んできたのは、天井裏まで飛沫が着くほどの血の海、そして無残に食いちぎられた二児とタケの遺体であった。上半身を食われたタケの腹は破られ胎児が引きずり出されていたが、ヒグマが手を出した様子は無く、その時には胎児は少し動いていたという。しかし、胎児も一時間後には死亡した。明景家の長男・力蔵(10)は雑穀俵の影に隠れて難を逃れ、殺戮の一部始終を目撃していた。明景家の長女・ヒサノ(6)は失神し無防備なまま居間で倒れていたが、不思議と彼女も無事だった。急いで生存者を保護し遺体を収容した一行が家を出たところ、屋内から不意に男児の声があがった。日露戦争還りの者がひとり中に戻ると、筵の下に隠されていた重傷の巌を見つけた。肩や胸にも咬みつかれた傷を負う巌の左大腿部から臀部は喰われ、骨だけになっていた。
村人は全員分教場へ避難することになり、重傷者たちも3km川下の辻家に収容されて応急の手当てを受けた。しかし、しきりと水を求め、うわ言を洩らしていた巌は20分後に息絶え、この二日間で6人、胎児を含めると7人の命が奪われた。ヤヨら怪我人たちは翌日さらに3km下流の家に移り、古丹別の病院に入院したのは12日になった。

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