三毛別羆事件(2/2)
■12月11日
すべての住民が三毛別分教場に避難した六線沢に人影は無く、怯えながら戸締りを固く閉ざした三毛別の各農家がヒグマ避けに焚く炎が昨夜から不気味に寒村を照らしていた。小村の住民だけではよもや為す術無く、長老らは話し合いヒグマ退治の応援を警察や行政に頼ることを決議した。その一方、家族に襲い掛かった悲劇を知る由も無く雪道を往く斉藤石五郎は、役所と警察に太田家の事件報告を終えて10日は苫前に宿を取り、11日昼近くに帰路についた。下流の三毛別に辿り着き、そこで妻や子供たちの受難を知らされた彼は、呆然と雪上に倒れ伏し、ただ慟哭をあげるしかなかった。

■12月12日
<討伐隊の組織>
六線沢ヒグマ出没の連絡は北海道庁にもたらされ、保安課から羽幌分署長・菅貢警部に討伐隊の組織が指示された。一方、死亡者の検死のため馬橇で一足早く現地に乗り込んだ医師は、正午頃山道でヒグマの糞を発見した。それを検分し中から人骨や髪の毛また未消化の人肉を見つけると、医師は戦慄に立ちすくんだ。
菅警部は近隣の青年会や消防団または志願の若者やアイヌたちにも協力を仰ぎ、村田銃や刃物類など、中には日本刀を携えた者を含め、多くの人員が三毛別に集まった。副隊長には土地勘がある帝室林野局(現:林野庁)の人物を置き、隊長の菅警部は要所を固める一方、討伐隊を差し向けた。しかし、林野に上手く紛れるヒグマの姿を捕らえることは出来なかった。

<待ち伏せ>
夕暮れが迫り、手応えを得られない討伐隊本部は検討を重ねた。ヒグマには獲物を取り戻そうとする習性がある。これを利用しヒグマをおびき寄せる策が提案されたが、その獲物が意味するものを前に本部内の意見は割れた。菅隊長は目的のため案を採用し、罵声さえ覚悟して遺族と村人の前に立った。だが、説明に誰一人異議を唱える者はおらず、皆は静かに受け入れた。こうして、犠牲者の遺体を餌にヒグマをおびき寄せるという前代未聞の作戦が採用された。
作戦はただちに実行された。銃の扱いに慣れた7名が選ばれ、交替要員1人を除く6名が補強した梁の上に張り込んでヒグマを待った。居間に置かれた胎児を含む6遺体が放つ死臭の中森の中から姿を現し近づいてきたヒグマに一同固唾を呑んで好機を待った。しかし、家の寸前でヒグマは歩みを止めて中を警戒すると、何度か家のまわりを巡り森へ引き返していった。男たちはそのまま翌日まで待ち伏せたがヒグマは現れず、作戦は失敗に終わった。

■12月13日
この日、旭川の第7師団から歩兵第28連隊が事件解決のために投入される運びとなり、将兵30名が出動した。一方、ヒグマは村人不在の家々を荒らし廻っていた。飼われていた鶏を食い殺し、鰊漬けなどの保存食を荒らし、さらに、服や寝具などをずたずたにしていた。中でも特徴的なことは、女が使っていた枕や、温めて湯たんぽ代りに用いる石などに異様な程の執着を示していた点だった。三毛別川右岸の8軒がこの被害に遭ったが、ヒグマの発見には至らなかった。
しかし、その暴れぶりからもヒグマの行動は慎重さを欠き始めていた。味を占めた獲物が見つからず、昼間にも拘らず大胆に人家に踏み込むなど警戒心が薄れていた。そして、行動域が段々と下流まで伸び、発見される危険性の高まりを認識出来ていなかった。菅隊長は氷橋を防衛線とし、ここに撃ち手を配置し警戒に当てた。
そして夜、橋で警備に就いていた一人が、対岸の切り株の影に不審を感じた。本数を数えると明らかに1本多く、しかも微かに動いているものがある。報告を受けた菅隊長が、人間かも知れないと大声で話しかけるも返答が無い。意を決し、命令のもと撃ち手が対岸や橋の上から銃を放った。すると怪しい影は動き出し、闇に紛れて姿を消した。やはり件のヒグマだったのだと仕留めそこないを悔やむ声も上がったが、隊長は手応えを感じ取っていた。

■12月14日
<悪魔の最期>
空が白むのを待ち対岸を調査した一行は、そこにヒグマの足跡と血痕を見つけた。銃弾を受けていれば動きが鈍るはずと、急ぎ討伐隊を差し向ける決定が下された。いち早く山に入ったのは、10日の深夜に話を聞きつけて三毛別に入った山本兵吉だった。鬼鹿村温根に住む山本は、若い頃に鯖裂き包丁一本でヒグマを倒し「サバサキの兄」と異名を持つ男で、軍帽と日露戦争の戦利品である銃を手に数多くの獲物を仕留めた天塩国でも評判が高いマタギだった。
ヒグマはミズナラの木につかまり、体を休めていた。その意識はふもとを登る討伐隊に向けられ、忍びつつ近づく山本の存在には全く気づいていない。20mほどまで近づいた山本はハルニレの樹に一旦身を隠し、銃を構えた。そして、銃声が響き、一発目の弾はヒグマの心臓近くを撃ちぬいた。即座に次の弾を込め、すばやく放たれた二発目は頭部を射抜いた。12月14日午前10時、急ぎ駆けつけた討伐隊が見たものは、村を恐怖の底に叩き落した悪魔の屠られた姿だった。

<熊風>
ヒグマは重さ340kg、身の丈2.7mにおよぶ巨体の雄で、ところどころ金毛が混ざる黒褐色の体躯には胸から背中にかけて「袈裟懸け」と呼ばれる白斑があった。推定7 -- 8歳と見られ、体に比べ頭部が異様に大きい特徴を持っていた。隊員たちは怒りや恨みを爆発させ、棒で殴る者、蹴りつけ踏みつける者など様々だった。やがて誰ともなく万歳を叫びだし、討伐隊200人の声がこだました。12日からの三日間で投入された討伐隊員はのべ600人、アイヌ犬10頭以上、導入された鉄砲は60丁にのぼった。
ヒグマの死骸は人々が引き摺って農道まで下ろされ、馬橇に積まれた。しかし馬が暴れて言うことを聞かず、仕方なく大人数で橇を引き始めた。すると程なくして、にわかに空が曇り雪が降り始めた。事件発生からこの三日間は晴天が続いていたのだが、雪は激しい吹雪に変わり橇を引く一行を激しく打った。この天候急変を、村人たちは「熊風」と呼んで語り継いだ。

<解剖>
猛吹雪に、5kmの下り道を1時間半掛けてヒグマの死骸は三毛別青年会館に運ばれた。その姿を前に、雨竜郡から来たアイヌの夫婦は、このヒグマが数日前に雨竜で女性を食害した獣だと語り、証拠に腹から赤い肌着の切れ端が出ると言った。あるマタギは、旭川でやはり女を食ったヒグマならば肉色の脚絆が見つかると言った。山本兵吉は、このヒグマが天塩で飯場の女を食い殺し三人のマタギに追われていた奴に違いないと述べた。解剖が始まり胃を開くと、中から赤い布、肉色の脚絆、そして阿部マユが着ていた葡萄色の脚絆が絡んだ頭髪とともに見つかり、皆は悲しみを新たにした。犠牲者の供養のため肉は煮て食べられたが、硬くて筋が多く、あまり美味くはなかったという。皮は板貼りされて乾燥させるため長い間晒された。その後肝などとともに50円で売却されたが、この金は討伐隊から被害者に贈られた。この毛皮や、同じく残された頭蓋骨は後にすべて失われ、今に伝わっていない。

<その後>
頭部に傷を負いながらも気丈な姿を見せたヤヨは順調に回復したが、背負われたまま噛み付かれた明景梅吉は、その後遺症に苦しみつつ2年8ヶ月後に死亡した。この少年を含め事件の死者を8人とすることもある。同じ家で羆の襲撃から生還した明景勇次郎は事件の27年後に大東亜戦争(太平洋戦争)で戦死した。オドも回復し翌春には仕事に戻ったが、帰宅時に川に転落して死亡した。ヒグマに受けた傷が影響したのかは定かではない。
事件は解決しても、村人に心理的恐怖を残した。村外を頼れる者は早々に六線沢を去ったが、多くはそのようなつてを持っていなかった。壊された家屋を修理し、荒らされた夜具や衣類の代わりに火に当たりながら、なんとか越冬した。しかし春になっても村人は気力を取り戻せず、太田三郎は家を焼き払って羽幌へ去った。その後、ひとりまたひとりと村を去り、下流の辻家を除いて最終的に集落は無人の地に帰した。
ヒグマを仕留めた山本兵吉はその後もマタギとして山野を駆け回り、1950年に92歳で亡くなった。彼の孫によると、生涯で倒したヒグマは300頭を超えるという。
事件当時に7歳だった、三毛別村長の息子・大川春義は、その後名うてのヒグマ撃ちとなった。これは、犠牲者ひとりにつき10頭のヒグマを仕留めるという誓いによるもので、62年をかけ102頭を数えたところで引退し、亡くなった村人を鎮魂する「熊害慰霊碑」を建立した。ちなみに、春義の息子である高義氏も同じくハンターであり、1980年には、父春義も追跡していた、体重500kgという大羆「北海太郎」を8年がかりの追跡の上仕留めている。さらにその5年後には、他のハンターと2人で、体重350kgの熊「渓谷の次郎」も仕留めている。

Good

カテゴリ:動物
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